
午前中から夕方にかけては、ひたすら明日の準備。掃除をして洗濯をして、という感じ。とても楽しいし、心が落ち着く。
で、夕方は浅草へ。木馬亭へ赴く。若干時代錯誤な感もあるが嫌いな劇場ではない。ただ浅草という街自体が使い古した観光資源に頼っているので妙な危うさを感じないわけでもない。
帰りに花屋へ寄り、数週間振りに花々を購い、窓辺に飾る。心が落ち着く。素敵だ。
午前中から夕方にかけては、ひたすら明日の準備。掃除をして洗濯をして、という感じ。とても楽しいし、心が落ち着く。
で、夕方は浅草へ。木馬亭へ赴く。若干時代錯誤な感もあるが嫌いな劇場ではない。ただ浅草という街自体が使い古した観光資源に頼っているので妙な危うさを感じないわけでもない。
帰りに花屋へ寄り、数週間振りに花々を購い、窓辺に飾る。心が落ち着く。素敵だ。
夜、稽古。読み合わせ二日目。何とかこの作品の世界を描き出せそうな予感はしている。銀座の街の効果ももしかしたらあるかもしれない。
稽古場を出て、銀座の街をぶらぶらする。それなりに親しみのあった街だけど、芝居の稽古で来ると、僕自身の中で印象が変わる。使っている五感が鋭くなっている。街の歴史、街自身が持つ音。そんなことごとが僕の感性に去来する。
ものごとを創り出すこと。この恐怖感と期待感。ワクワクする。
水曜日。なぜか様々な思いが交錯する曜日。人を想う。大切な人を想う。それだけで良い。
「暇な時には祈る」、僕自身が生み出した格言。これを実行すれば、人生のあらゆる瞬間が愛おしくなる。できることは祈ること。これだけで何とかなるのだ。自分の身体が神殿であり、言葉が祝詞であり、行為が祈りである。これが目指す人生。
色々考える水曜日。そんな曜日。生きていこう。
赤坂での一仕事を終え、銀座へ。「ちえほふなひとびと」の稽古。今日から立ち稽古。優しく、楽しく、そして深く、そんな作品に仕上げたいと願っている。
28の時の衝撃は僕の人生の中では再認識しなければならないことだろう。僕はあの時、何を得たのか。何に気付いたのか。このことを僕自身で決着をつけねばならないのだろう。
それにしても銀座の街に通うことになって、また新しい世界が広がりつつある。齢を重ねても、こういう刺激を体の奥の感覚に染み込ませられるのが嬉しい。僕の特質だろう。
さて、今週は自分の来し方を振り返る。もう振り返っても悪くはないだろう。
19で小林秀雄の著作に心を奪われる。時を少し後にして野田秀樹に触れる。細胞が覚醒する。で、佐野元春を再認識し、20の時に村上春樹の世界に引き摺り込まれる。そして20代半ばで死ぬ間際まで追い詰められ、28の時に劇的に回復し、そこからひたすら生きることになる。
これらの衝撃が結果、今のいままで続いている。これが僕の原動力となっている。
なぜか寝られない日々が続く。丁寧に規則正しく生活を送っているのだが、どうも改善しない。辛抱強く待つしかないか。村上春樹の小説のようにしっかり待って然るべき時に動く。これしかないだろう。
当たり前だが日々何かが動いている。時を重ね、何かが熟し、腐敗して次世代に渡してゆく。
今日は、戦友と呼んでも良いほどの仲間とじっくり話ができた。大切な仲間。友人という言葉では覆いきれない関係。そういう人も何人かいる。