
教え子たちのリハーサル。本番と同じ場所での通し稽古。舞台装置がまだまだ未完成。だが、芝居の中身は良い方向にある。
小林さんのこと。「本居宣長」を一生をかけて読む。それに値する著作。言葉を見つめて言葉を体に落とすということはそういうこと。
日々の雑音、そこに潜む僕らの目指すもの。どこまでも、行こう。
教え子たちのリハーサル。本番と同じ場所での通し稽古。舞台装置がまだまだ未完成。だが、芝居の中身は良い方向にある。
小林さんのこと。「本居宣長」を一生をかけて読む。それに値する著作。言葉を見つめて言葉を体に落とすということはそういうこと。
日々の雑音、そこに潜む僕らの目指すもの。どこまでも、行こう。
いつにも増して、生きていかなければならない、と強く考える。僕自身の行動が何かにつながることを考える。えい、と思う。えい、と思う。
もうすぐ芝居の稽古が始まる。講師を務める講演も近い。彼女たちに僕は何を伝えられるのか。しっかりと伝えなければ、意味がない。伝えること。
生きること、生きることだ。死んでも、生きること。なぜだか今日はこんなことばかり考えている。
今日も小林秀雄について考える。考えるヒントの「忠臣蔵」。この作品から、芝居を打つことの意義を僕は受け取った。赤穂浪士の討ち入りがあり、自分達を処した行動があり、それを受け止めた人々がいた。
そしてその確かな行動を伝えた。しっかりと伝えた。しかも芝居にして伝えた。報道であり、伝達であり、創造だ。
芝居を打つ原点がここにある。そしてこれは僕らの伝統の中に埋め込まれている。
小林さんの「ドストエフスキーの生活」、その序文。この短文に書かれた内容は僕にとっては無尽蔵の泉といえる。いくら読んでも読み尽くせない。
ゴッホの言葉を簡単に引用しようとしてもおそらくなかなかできないのだろう。それくらい饒舌で真意がわかりにくいのだが、文章のうねりの中にゴッホの生き様がうかがえるのだろう。
ドストエフスキーもそうなのだが小林さんが描く天才たちはなぜか肌で感じるほど近くに感じるのだ。
小林秀雄「ゴッホの手紙」、引用が多くてその点への批判が多いらしいが、それはこの作品をじっくり読んでいない人の意見だろう。丹念に読めば小林さんがなぜ引用せざるを得なかったかが心の奥で感じられる。
ゴッホの言葉を簡単に引用しようとしてもおそらくなかなかできないのだろう。それくらい饒舌で真意がわかりにくいのだが、文章のうねりの中にゴッホの生き様がうかがえるのだろう。
ドストエフスキーもそうなのだが小林さんが描く天才たちはなぜか肌で感じるほど近くに感じるのだ。
小林秀雄の最後の大作「本居宣長」。この著作から感じることは、時間軸的には過去を見るわけだが、対象が生きる方向に向いて生きている、という当たり前なことを、じっくりと行っていること、この行為の集大成なのだと思う。
冒頭の折口信夫とのやりとりから始まるこの著作、普通に読んでワクワクする。この感覚は普通の人にはなかなか伝わらないが、これを大事に感じる自分が誇らしい。
死ぬまで彼の著作は読んでいたい。読んで読んで読み尽くした。そしてアンリ・ベルクソンにも辿り着きたい。
小林秀雄のことを考える。彼の成したことから僕は常に学んでいるのだが、やはり一番僕に一番影響を与えたのは「考えるヒント」だろう。
このエッセイ集にから教わったことは、兎にも角にもしっかりと考えていきなさい、ということ。自分の頭で自分の言葉で判断すること。
ここから逃げないこと。大変だとついつい逃げてしまうが、逃げる気持ちを創造に変えてしまうこと。これを学んだだけでも価値がある。