日記 2025

05月04日(日)〜05月10日(土)

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05.10.Sat

「他人の目」のテキストレジーを進めながら、解題するとしたら、何が良いかを漠然とふんわりと考えている。この戯曲の本質はどこにあるのか、それをずっと考えている。物事の本質を自分なりの感覚だけで、探る、こういう行為は、はっきり言って楽しい。

日常、生きていて、その瞬間その瞬間に、最もやるべきことを瞬時に選択して、実際に行動する。生きるってのは、おそらくその連続だと思う。選ぶと言うことは他を捨てることに直結しかねないので、選択しなかったことごとへの配慮を忘れないようにした方が良いのだろう。

小林秀雄が到達した地平にはどんな風景が広がっているのだろう。おそらくそこでは「言葉」が明確な輪郭を表しては、儚げにゆっくりとその姿を隠し、そしてまた違ういろあいで持って踊り出す、そんな風景かもしれない。

05.09.Fri

この生が、果たして何度目の生なのか、よくわからない。だけど、僕の中に、無数の数えきれない無尽蔵の「死」が道標となって意識の奥底に、散らばっているのを感じることがある。今日はそんな1日だった。

こんなの、個人的感覚だから、証明する必要もないけど、男であったこと、女であったこと、まだ人間ではなかったとき、まさにさまざまな生だった、そんなことだと勝手に思っている。

世界は動いている。でもそれはおそらく直線ではない。動いている、と意言葉自体が陳腐なほど、動いている。そして、どんなささやかな動きにも、僕らは本能で感じていると思う。

05.08.Thu

朝、ほんわりと、陽の光と戯れる。静かな波が足元から伝わってくる。なんの波かは知らない。知ろうとする必要もない。ただ、その鼓動を感じ続けたいだけだ。そして、硫黄島で戦って下さった方々に感謝の言葉を口にしてみる。

ありがとうの言葉を自分に投げかけて、その反射を太陽に返す。なんかそこから1日が始まる感じ。現実への一歩を軽やかに踏み出す。

「傀儡師」を、軽くなぞってみる。音と音の間に、ふと陰と陽のリズムを挟み込む。その反動を僕の魂は受け止める。さあ、生きよう。

05.07.Wed

午前中、山手線に乗って新橋へ。日舞の稽古。小道具をある程度揃えての初めての稽古となった。踊りの方はほぼ良い感じになってきている。曲の流れが体の奥に染み渡っているのがわかる。自分で、あ、越えられたと、そう言うふうに思った。日舞を始めて、この感覚は今までにない。

稽古場の帰り、山手線の中で人々の、何というか、存在を皮膚の奥で感じてみる。みんな生きている。日本の方も異国の方も。争う必要はない、だが、威厳は必要だ。矜持と言ってもいい。言霊が咲き誇る国の民として。言の葉に命を懸けられる民族の末裔として。

詩と言うものが、何処の国民にとっても肝要なんだと、心の奥で感じる。迸る思いが、身体を通してあやとなり、詩になり、踊る原動力となり、言の葉に結晶する。

05.06.Tue

G.W.最終日。だからと云って特別なことはない。「傀儡師」の小道具をひたすら作り、何とか目処を立てる。花の形をある程度吟味し、付け方の方法は色々迷ったが、結局はセロテープで付ける。

六尺棒に紅白のリボンを巻き付ける。この作業は意外とスムーズに進む。そして、傀儡師の箱の仕上げ。サイズを調整し、ヤスリをかけ、ニスを塗り、紐を取り付けて、最低限の形を整える。

物を作ることが根本的に好きなんだなあと思う。作っていると何か大きな存在に近づいている感覚が生じる。大きなものと言っても大袈裟ではない。大きくて深いものだ。そう言うものに触れられる。

05.05.Mon

いかにも G.W.らしい陽気。多少の汗ばみを感じながら、浅草橋まで出る。ゆらり揺られながら、ふんわりとした気持ちで電車に乗っていた。今日はこんな気分。

シモジマ本店に出向いたがあいにくそこには造花がほとんどない。聞いてみると造花に特化した店舗が別にあると言う。場所を教えてもらい行ってみたら、目当ての桜の造花がたくさんあった。必要量に何とか目処を付け、本店に戻って、リボンを買い、帰宅する。

野田秀樹と佐野元春が現在到達している領域に少しでも近づくこと。これをするだけで僕の人生は終わる。それでいい。

05.04.Sun

今の部屋に来てもうすぐ2年。更新せずに引っ越す訳だが、ワクチンの影響が、ほんの少しだが減退してくれたので、これを機に新たな生活に入り、残りの役者人生を充実したものにしたい。そう決算という訳ではないが、締めくくりとして。

小林さんの著作をもっともっと読み込むこと。そしてベルクソンと宣長に少しでも近づくこと。

野田秀樹と佐野元春が現在到達している領域に少しでも近づくこと。これをするだけで僕の人生は終わる。それでいい。

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