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このページでは、酒井が日々感じていることをコラム風に書き綴っていきたいと思っています。

#5・健康

父が他界してもう今年で10年目を迎えている。彼は本人が40歳の時に病気を発症し、77歳で死ぬまでおよそ30年以上、その病気を抱えていた。その間、入退院の繰り返しが常態化していたので、私は人生の早い時期から病人が身近にいる生活を強いられた。そのためか「健康」に対する考え方を10代後半から真剣に考えることになった。

病気とは何だろうか。健康とは何だろうか。父の病気はどちらかというと外科的な要素が強く、尚且つ内臓は丈夫な人だったので、外見的には健康的な空気を纏っていた。それに気丈夫でもあったので、病人には決して見えず、健康そのものに見えた。酒は飲めなかったが、食欲だけは人一倍あり、大病を患っているとは他人からは窺えない、そんな状態だった。そんな父を見ていると、「病人」とは何だろうかとよく考えさせられた。この人は珍しい病気を患っていて、実際家族は大変なんだけど「不健康」ではないな、と。そして「病気」と「健康」は同じ土俵で考えることなのか、そんな風に考えるようになった。

例えば手足が不自由だとしても、その人を不健康だと一概には言えないだろう。明るく健全な方も多いと思う。五体不満足の乙武さんは不自由かもしれないが、その「不自由さ」と「健康」かどうかは別問題であろう。また、抱えている病気が内科的なものだったとすると、ややもすると「不健康」という言葉がそこから滲み出てきそうな気もするが、内臓を患った「健康的な」人も、いくらでもいるような気はするので、これも決め付けられないと思う。

つまり「病気」、というか西洋医学で診断する病名の付く状態と、その人が「健康」か否かは、一緒に考えてはいけない話なのだと思う。人には各々背負った状態というか運命というか、引き受けざるを得ない条件があって、例え「病気」という衣を纏っていたとしても、どんな人でも「健康」的に生きることは可能だし、みんなそれぞれ自分の「健康」状態を持っている。逆に言うと、どんな人でも、病人でもそうじゃなくても、不健康に生きることすら可能だ。いや、一見不健康に見えても、活き活きと「健康」的に生きている人も多いかもしれない。「健康」の基準は、それこそ千差万別で、これが「健康」というものです、と指し示すことなんか決して出来ないのかもしれない。

なので「病気」あろうがなかろうが、自分が納得できる自分なりの「健康」の状態で、人は生きていけるのだと、思う。

2022.05.01

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